先日、ウチの娘が校長先生のお話しの中で、「最近、5・6年生が生意気になってきた。人の話しを聞いてる振りだけして、まったく聞いていない(その場だけ聞いて、言うとおりに行動しない)。」というようなことを聞いてきたようです。
校長先生の言いたいことはもちろん分かります。きっと目につくような具体的な例があったのでしょう。しかしそれを聞いて、私はそういう部分も含めて、『成長の証し』なのかなと思いました。
空手道場の少年部のお手伝いを始めてからしばらく経ちますが、ある高学年の男の子はまさにコレです。アドバイスをしても、一応返事はしますが、聞いてるような聞いてないような感じ。アドバイス直後もそのとおりにやるかというと、そうでもない。「ちゃんとできていないのは分かっているが、言われたくない」「言われて、無邪気に従うほど子供じゃない」「大人の言うことをすんなり認めたくない」っていう感じがアリアリなのです。
しかし、その態度を面と向かって叱りつけても、意味がありません。大人側はその子がなぜそのような態度をとるのかを、考えなくてはなりません。子供と言っても、さすがに10歳を過ぎればいろいろ分かってきます。自分で考えるようになってきます。相手が信用に足る人間なのか、そのアドバイスが自分にとって必要かどうか、子供も子供なりに判断しているのです。
もちろん、教わる側はそういう選択をせず、いろんなことを素直に吸収するのが一番の成長の近道なのですが、なかなかそうはいきません。そうできる方が稀でしょう。私も、ちいさい頃はとにかく『口ごたえ』『屁理屈』が多い子でした。5・6年生の時の担任の先生には相当、疎んじられていましたね(笑)
教える方は、素直に「ハイ!」「ハイ!」と何でも聞いてくれる方が楽に決まっています。しかし、その「ハイ!」には、もう高学年には『理解』『自分の考え』が含まれなくてはなりません。だからこそ、自分が理解できないことだったり、自分の考えと合わないことだった場合には、素直に「ハイ!」と言えない時があってもいいのです。また、言われていることは真っ当だと思っていても、それができない自分が悔しくて、認めたくないという場合もありますね。それも教える側が受け入れてあげるべきだと思うのです。
解釈はいろいろとありますが、私は『教育』という言葉の意味は、『教』⇒教えること、『育』⇒育つこと、だと考えています。「こちら側からは、いろいろ教えてあげるけど、それを聞いて育つのは自分だよ。」という意味です。その育つスピード、成長の過程は、個人によって様々です。成長の過程の中で、ある程度生意気になるのは、至極当然のことなのかなと思います。
「あの子は最近、全然言うこと聞かない。生意気になった。」などとネガティブに考えず、「自分でいろいろ判断できるようになったか。成長してきたな。」とポジティブに考えれば、腹も立たないのではないかと。
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