「お互いに礼」の意味を考える○

 ロンドン五輪、サッカー男子3位決定戦で、日本を下した韓国のMFパク・チョンウ選手が、試合後に竹島を韓国固有の領土と主張するメッセージを掲げた問題が、波紋を広げています。それはこの行為が、政治的行為や活動を禁じている五輪憲章に抵触しているからです。観客のみならず、出場選手自身がこんな基本的なことも知らずにプラカードを掲げ、周りの韓国人選手もそれを止めさせるどころか讃えているあたり、愚の骨頂です。IOCも何らかの処分を下さざるを得ないでしょう。

   しかし、五輪憲章とかそんなこと以前に、相手の尊厳を傷つけるような行為をしてはいけないのです。オリンピックはある意味、国と国とのプライドをかけたぶつかり合い、国によっては選手は、まさに戦地に赴く心境で競技に臨むでしょう。しかし、競い合いではありますが、争いではありません。戦争ではなく、スポーツなのです。

 そこにはもちろん勝敗があります。真剣勝負の世界です。勝者は賞賛され、敗者には何も残りません。でもよく考えてください。どんな競技でも自分独りだけで、勝敗が着けられますか?相手がいて、初めて勝負が成り立つのではありませんか?相手が真剣に自分の相手をしてくれるからこそ、自分がその競技をできるのではありませんか?そう考えたら、試合の後に残るのは、もう相手に対する『感謝』しかないでしょう。

 目の前にいるのは、けっして『敵』などではなく、同じ競技を愛する『仲間』なのです。互いに感謝し、尊敬し合えるからこそ、試合が成立する。だからこそ、次もぜひ対戦しようと思えるのです。もしスポーツを代理戦争の道具にしてしまったら、競技での相手に対する敬意はありません。ただ目の前の敵を完膚なきまでに叩き潰して終わりでしょう。しかしもうそれは、スポーツとは呼べない代物なんでしょうね。 

 「オリンピックは、世界最大の平和の祭典」その意味を再認識する必要がありそうですね。

 ところで、ここからが、ブログタイトルの内容です。先週ブログの更新をサボってしまったので、今日は二段構えの構成です。武道には、『三節の礼』というものがあります。1.神に対する礼、2.師に対する礼、3.同僚に対する礼 です。1.は神前であったり、正面であったり、その場に対してであったりします。2.は師範や先生、部活からOBの先輩に対して、といったところでしょうか。3.は稽古するみんなや、試合の相手に対し、お互いにするものです。

 普段ごく当たり前にしているものですが、一つたりともおろそかにしていいものはありませんし、全てが自分にとって必要なものです。ここでよく考えてみましょう。稽古場がなければ、稽古はできませんよね。もちろん自宅でもできることはありますが、そういう屁理屈は置いておきます。試合も試合会場がなければできません。また、習い事にはたいてい、師や先生がいます。師の教えがあってこそ、自分の上達があります。そして、一緒に稽古してくれる仲間、競ってくれる仲間がいることの喜びは何物にも代えがたいものがあります。試合でも相手してくれる人がいるから自分が試合ができるのです。これら全て自分に必要なものなのです。

 だからこその三節の礼なのです。ただ決まり事だから、やらないとうるさいからではないのです。そう考えれば、誰かの相手をする際には真剣にやらなければ、失礼ですし、感謝してもらえないかもしれません。道場・練習場での掃除も、もっと気持ちが入ることでしょう。先生の教えも、「あ~、またおんなじこと言われたよ~」じゃなくて、その意味を真剣に考えるでしょう。

 なぜ、礼をするのか。それは感謝と尊敬の意を表すため。なぜ、感謝の気持ちを持つのか、尊敬の意を示すのか。それはもうすでに書きましたね。ちょっと『礼』が悪い意味で当たり前になっちゃっている人は、その意味を考えてみてください。  余談ですが、普段の挨拶も同じですよ。例えば「おはよう!」って言える相手がいるって、それだけでもう、感謝でしょ?

 

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