パパはがんばった! 家族がいるからがんばれた。

内柴史上4人目連覇&北京金1号/柔道 [2008年8月11日読売新聞より]  柔道男子66キロ級の内柴正人(30=旭化成)が五輪2連覇を達成し、今大会日本勢初の金メダルを獲得した。世界選手権2度優勝のミレスマイリ(イラン)を3回戦で破って勢いに乗り、決勝ではダルベレ(フランス)に縦四方固めで1本勝ち。30歳2カ月で日本柔道最年長の金メダリストになった。アテネ五輪後の不振を家族力で乗り越えた男が、会場のあかり夫人(28)と長男輝(ひかる)くん(4)に「強いパパ」の姿を見せた。  「輝、輝、輝!」。試合後、内柴は観客席に座る長男の名を力の限り叫んだ。喜びを一番最初に伝えたかった。日本柔道最年長金メダルでの2連覇は、今大会日本勢金メダル第1号のおまけつき。「勝つって思ってた。勝とうとずっと思ってた。ただうれしい。夢じゃないかって」。感動をかみしめるように言った。  決勝はスマートではなかったが、勝負強い男を象徴する試合だった。ダルベレを寝技に引き込み、体を入れ替えると縦四方固めで抑え込んだ。相手の「参った」にも「何で勝ったか分からない。家でビデオで確認したい。腕もきめたけど、相手は首を押さえてたし」とキョトンとした表情を浮かべた。  3回戦で強敵ミレスマイリからともえ投げで有効を奪うなど、終始ペースを握り優勢勝ち。4回戦のシャリポフ戦は残り1秒、合わせ技で逆転の1本勝ちだった。「今まで勝てない時間があったから、いつ良い流れが切れるか不安だった」。そんな言葉とは裏腹に、世界一にふさわしい最高の内容だった。  原動力は家族だった。アテネ五輪翌年の05年カイロ世界選手権で銀メダルを獲得した。しかし、その後、左ひじを手術した影響もあり、不振に陥った。07年世界選手権は代表落ち。もがき苦しんだ。同12月の嘉納杯東京国際で2回戦負けを喫した直後「試合場を下りた時に観客席にいた息子と目が合いました。寂しそうな目をしていた。お父さんがこんなことじゃダメだと思った」。この時に感じた強い思いが、4月の全日本選抜体重別優勝、そして代表選出をもたらした。 ~:~:~  今大会の日本初金メダル、内柴選手おめでとうございます。正直なところ、これまでの不振、30才という年齢などから考えて、内柴選手の金メダルは相当厳しいと思っていました。それが、前日の平岡選手の雪辱を果たし、日本勢に良い流れを引き寄せる金メダル。やはりアテネの金メダリストは伊達じゃないですね。  仕事中なので、LIVEでは見れませんでしたが、ニュースの中で、試合後に家族の名前を大声で呼ぶ内柴選手に、家族との深い絆を感じました。それと同時に、家族がいたから勝ち取れた金メダルなんだなと思いました。  「家族がいたから勝ち取れた金メダル」 これには、2つの意味があります。1つは、言葉どおり、自分がつらい時、しんどい時、家族が支えになった。はげましてくれた。自分が柔道に専念できる環境を作ってくれた。いろいろと自分に協力してくれたというものです。そして、もう1つは、一家の長として(柔道で)家族を養っていくには、柔道で成功するしかない=金メダルを獲るしかないという執念にも似た強い意欲をもたらしてくれたというものです。自分ひとりなら、柔道でメシが食えなくなっても、「まあ、少しバイトでもすればいいか。」となりますが、養うべき家族がいればそうはいきません。柔道を辞めたくなければ、企業と契約したり、その企業に入り、仕事として専念させてもらうしかないのです。そのためには強くなくてはならないのです。  内柴選手自身、「おやじなのでおやじの仕事をしっかりやりました」 とインタビューで答えています。企業に勤めている形を取ってはいますが、この人達は事実上のプロ。その競技で結果を出すことで企業に貢献しています。メダルを獲れば 『内柴正人(30=旭化成)』 のようにニュースの度に企業の名前が出ます。それが金メダルならなおさらです。内柴選手、本当に最高の仕事をしましたね。お疲れさまでした。どうか、ゆっくり休んでください。  ~〈整体師を目指す方へ今日の一言〉~  好きな整体を仕事として続けたいなら、結果を出し続けること、期待に応え続けることです。その為の努力は惜しむべきではありません。
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