人に何か教えるのって難しいなって感じませんか?
とくに家で、我が子に勉強や躾を教える時など、どうしてこううまく伝わらないんだろう?と考えてしまいます。たしかに子供はすべてのことが勉強中で、いろいろできなくて当然なんですけど、それでも毎回同じことを繰り返し繰り返し注意していて、ホントにこの子ら成長してるんだろうか?と悩みます。まあ、これって、多かれ少なかれどこの家庭にもあることなんでしょうけど。
今年から毎日新聞をとっているのですが、毎週日曜日に、西原理恵子さんの『毎日母さん』が連載されています。西原さんはすでに子育てには、ずいぶん達観されていて、玄関に靴が脱ぎ散らかしてあったり、部屋がどんなに片づいてなくても、それは「平和な我が家の一風景」なんだそうです。子供に「勉強しなさい。」と言わなくなったら、だいぶストレスが溜まらず、楽になったそうです。
ここまでは達観はできませんが、あまり怒ってばかりいてもしかたありませんし、怒りながら教えても、耳をふさがれるばかりで通じてないのかなとも思います。子供に何かを教える時は、それは、子供にそれができるようになってほしいと期待を込めて教えます。しかしそれがなかなかうまく行かないと、期待が外れて親の方はイライラしてしまいます。そこであきらめてしまえば、楽なんだろうけど、それだと親の責任を放棄しているみたいで、そこは許せず、厳しくなってしまいます。
しかしそこを『あきらめ』るわけでなく、『みとめ』るカタチでなんとかできないかと、最近考えています。「出来ないのを認めてしまっては、諦めてんのと一緒だろ!」と言われそうですが、自分もその区別がまだしっかりできていないのですが、おそらく似て非なる物だと思うのです。きっと漫画家の西原さんは、その『みとめ』というのができているんだと思います。
『みとめ』は、ふつう感じ書くと『認め』ですが、『見留め』とも書けますよね。『あきらめ』はその子から、目を逸らしてしまうことですが、『みとめ』はしっかりとその子のすることを『見て、目に留める』ことだと思うのです。まあ見てるからつい口を出したくなるのですが、それをせずに、『みとめ』て行くのは、けっこう難しいことだと思います。
このことが最近少しずつ分かりかけてきて、自分の感覚ですが、怒る回数が減っているように思います。もう少ししたら、子供に聞いてみようと思います。もちろん、時と場合には、真剣に叱りつけていることを、子供に分からせるべく、大きな声で怒ることも必要でしょう。それを放棄はしません。しかし、ふだんあまり怒らない人が、怒ったほうが、怒られたほうも、真剣に耳を傾けるのではないでしょうか。
まだまだ親も勉強中です。答えはいつか見つかるのでしょうか・・・
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