足立に住む夫婦の次男が行方不明になっている事件が、今話題になっていますね。次男が、夫婦の供述どおり、すでに死んでしまっているのであれば、ご冥福をお祈りいたします。この次男の男の子も、何のために生まれてきたのか、分からないまま死ぬことになって、幼いながらもきっと無念だったことでしょう。せめて、殺人ではないことだけ祈りたいと思います。
私はこの事件を少し違う点から、見てみたいと思います。30歳の男と27歳の女の夫婦で、子供6人。ここまではいいです。でもなんで無職、なんで生活保護費受給者なんでしょうか?報道で知る限りは、働けないようには感じないのですが。そして子供が死んでもそのことを隠し、児童手当をもらい続けようとする始末。もう完全に、不労収入をあてにしていますね。働かないでお金を手に入れることに喜びを感じてしまっているのでしょう。
世の中の大多数の生活保護を受けている方が、さまざまな事情で満足に働くことができず、憲法で保障された生存権を脅かされる事態を回避するために、受給していることは周知の事実です。しかし、中にはそういった制度を悪用し、不正に受給をしようとたくらむ人がいるのも事実です。しかし、働かずにお金を誰かからもらうことって、そんなにうれしいことなのでしょうか?
私は、喜びにはきっと2種類あるんだと思います。ひとつは、『勤労の喜び』です。働くということは、それが誰かの役にたっている、自分のしたことが価値を生み出している、ということです。人は独りでは生きていけません。かならず誰かと関わりをもって生きています。それが社会です。その中で、自分が価値を生み出し、世の中に貢献し、その結果対価として、お金を得る。自己の存在価値を自分で確認できる瞬間です。だからこそ、人は仕事にやりがいを求めます。
一方、誰かの生み出した価値を消費するだけでは、自己の存在価値を見い出すのはなかなか難しいです。誰かにおぶさり、ぶら下がったままでは、劣等感を感じたり、申しわけない気持ちでいっぱいになったりして、苦しいはずです。とくに働けるのに、働かないのであればなおさらでしょう。しかし、なぜかその状況を喜びに感じてしまう人がいます。言うなれば『不労の喜び』とでも、言うのでしょうか。ズルやごまかしをして、働かずに何か価値のあるものを手に入れる。他人が一所懸命働いて手に入れたものと同じ物を、その苦労をせずに手に入れる。そこに喜びを感じるというものです。
もちろん、その喜び方をまったく理解できないわけではありません。競馬や宝くじが当たれば、誰しもがうれしいでしょう。私も宝くじはたまに買います。しかし、それは普段まじめに働き、そのお金の価値を知っているから、公営ギャンブルや宝くじが当たった時にうれしいのです。働きもせず、誰かを欺いて手にいれたお金に、価値を感じることはできません。ただ空しいだけです。そんなお金を使って手に入れたものに思い入れを感じることができるのでしょうか?そんなお金で食べるごはんはおいしいのでしょうか?
「別に、お金に色が付いているわけじゃない。」と言ったりしますが、私は、お金には色はあると思います。初月給、大好きなおばあちゃんからもらったお年玉、入学祝、やっぱりこれって使い道考えますよね?一方、パチンコで何万勝ったとか、競馬で万馬券当てたとかいういわゆるあぶく銭は、きっと何に使ったか分からないままその名のとおりあぶくに消えますよね。不思議ですが、そんなものです。
一見、『不労の喜び』は、うらやましく見えるかもしれません。しかしきっと、その喜びは偽物です。手にいれても、本当にうれしくはありません。お金の額がいくら増えようが満たされることはないでしょう。それよりも、額には関係なく、誰かの役に立ち、自分が社会の一員であると胸を張って手にいれることができたお金。そしてそれを使える喜び。それが、真の喜びだと思います。
そういう点では、私は、この整体師という職業を選んで、本当に良かったと思います。
実は、この流れで、楽しさについても書きたかったのですが、長くなってしまったので、②に続きます。
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『整体は、マン病を予ボウする』
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